このブログについて【C型肝炎治療にあたり】

11月にハーボニーの治療を行うこととなり、今までの気持ち、そしてこれからの治療の記録を残す。

 

私は母子感染でC型肝炎になった。現在の年齢は25歳。

20歳になったときに、両親から病気のことを聞き、現在まで数値も悪くないことから治療薬が出るのを待っていた。

母の治療も終わり、飲み薬での治療を待っていたため、治療を受けることとなる。

 

【20歳】

同じ境遇の人をネットで沢山探した。あんまりいなかった。どうやら母子感染はあまりいないらしい。生まれたときから、とんだ宝くじを引いてしまったようだ。ん、貧乏くじか?

議員になった薬害肝炎の人の本を読んだ。どうせなら悪くなれと働きすぎたり、もがいてる姿には共感できず。正直、恨む相手(国)がいて羨ましいとも思った。

C型肝炎 助けて」でWEB検索。誰も助けてはくれない。

お酒を飲むなと過保護すぎるくらい口うるさかった親、姉には飲ませずに、私だけにプロポリスを飲ませる親、今まで気になっていたことに合点がいった。だがしかし、私の衝撃を癒やしてくれる存在はお酒のみであった。飲酒。そして飲酒である。

 

【21歳〜23歳】

病気だと知る前から決まっていた海外留学へ。病気のことは、片時も忘れることはなかったが、20年間生きてきた生き方なぞは変えることはできず。そして、病気なんかで生きたいように生きれないのはおかしいという思いで、普通に生活は送る。飲酒、そして飲酒したが、翌日に後悔するようになったので、最終的にあまり飲まなくなる。

1年の留学で、病気に関して悩んでも解決する方法がないのだから、悩んでも仕方がないという気持ちになる。でも悩む。修行の日々である。

具体的に何を悩むかというと、恋愛はできないな、とか。就活のときに、内定した会社には言わなきゃいけないのか、とか。海外留学にまた行きたいけど、治療が終わって治ってからじゃなきゃだめか、とか。

何かを決断するときに、病気のことを考えなければならない。これが一番きつかった。目に見えて、障害があるわけでも、病気が悪化しているわけでもない。治らないけど、悪くもならない5年間の中で、私は色んなことを病気を理由に諦めてしまっていた。

成人用おむつのCMで、「できないことを嘆くより、できることを楽しもう。」というキャッチフレーズが流れていた。絶望した。残酷な言葉である。そりゃできることは、言われんでも楽しんどるわ。

しかし、私がしたかったことは、病気のせいで絶対できないことではなかった。やろうと思えばできたはずだ。そう思うたび自己嫌悪だった。

この間も通院していた。半年に一回の儀式である。大きい病院、平日、長時間の待ち。老人しかいない待合室。滅入る。この一言に尽きる。今思えば、通院などしなくとも良かったのだとは思う。母子感染は20歳くらいまでは進行がほとんどないからだ。でも私の儀式だった。お前は病気だと、自分に言う儀式である。

治療方法など、WEBで調べるとコミュニティがあることがわかる。ブログ主はほとんど50オーバー。子供も家族もいるなかで、発覚している人がほとんどである。コミュニティに入る気にはなれなかった。

 

【24歳〜25歳】

こうして己の悩みを誰かに打ち明けることもなく、治療法が見つかれば、治そうという楽な気持ちに落ち着く。だって今は治らないから。と言っても結構切実である。治療法が見つかれば、すぐに治したい。

まあ、働き始めてから、仕事が忙しく悩む暇もなかったが。良かった。

周りに病気について言ったことはないため、どうだかわからないが、C型肝炎感染症であり差別、冷遇される、安易に言わないという空気がある。私がそんな秘密を抱えるのは無理である。むしろここまでよく言いふらさなかったと思う。頭の悪い空気の読まないミーハーな女子、それが私だ。あげくにかまってちゃんである。絶好のネタではないか。言えないことで、劣等感が大爆発している状態である。不幸自慢をしてピエロにもなれない。

親から「医療は進歩している」という慰めの言葉をよく聞いていた。またしても絶望的な言葉だ。「そりゃ病気は治るでしょうよ、でもね、私の5年間ってどうなるの。治っても戻ってこない。」という気持ちを親に伝えたときは、失敗したなと思った。

つまり、この5年間を私は肯定できていないわけだ。こうなってくると、肝炎自体は全く問題がないが、心の問題のように思えてくる。

 

治ったとして、私はこの5年を受け止められるのか。

わからない。

 

 

 

 

おわり